私たち夫婦が2人目不妊治療を始めたのは、29歳の8月のことです。
5月に一度、精液検査だけでもということで専門クリニックを訪れました。
検査の結果、1人目の時と同様自然妊娠は難しいという診断を下されました(T_T)
私自身はすぐにでも治療を開始したかったのですが、夫の方がなかなか乗り気にならず、説得するのにはだいぶ時間を要しました。
2010年8月に開始した2人目不妊治療は、急用が入ったことで次の周期に見送りとなり、実質9月の開始となりました。
1人目の時と同じく、採卵後にOHSSを発症してしまい、この周期の移植は断念せざるをえませんでした。
その後、2月に移植をしましたが、願い虚しく撃沈(T_T)
そしてこの年(2011年)の3月11日にあの大震災が起きます。
放射能の心配が無視出来ず、しばらくは治療をお休みすることに。
2回目の移植はだいぶ間隔を空けて、12月に行いました。しかしこの時も私たちの願いは届くことなく、残念な結果に終わってしまいました。
不運なことには、また夫の転勤が確実なものとなり、受精卵をクリニックに残したまま県外に出ていかざるをえない状況に。
そうなると、いつまた治療を再開出来るかも分かりません。
4月には別の土地にいることを考えたら、3回目の移植は私たちにとっての最後の勝負でした。
冷え対策や栄養管理を徹底的に行い、乱れがちだった生活のリズムも意識して整えるようにした結果、幸いなことに2つ戻した受精卵が2つとも着床してくれました。
私の子宮には双子の命が宿ったのです。
初期の大量出血
双子の妊娠はとても嬉しかったのですが、そのすぐあとに大きな不安が襲ってきました。
私はいわゆる無力型体型で、BMIも16,6と日本人女性の理想値である21,0を大きく下回っています。
こんな身体で、果たして2つの生命を養っていけるのか?
もし私と双子に何かあった場合、娘や夫はどうなるのか…。
しかし、不安になったところでこれが現実なのですから、あとは流れに身を任せ、自分に出来ることを精一杯やっていく以外にないのです。
新しい病院に紹介状を書いてもらい、新しい土地での新しい生活が始まりました。
1人目の時に子宮内反症で大変な目にあったことを踏まえ、2人目は産婦人科専門の大きな病院を選びました。
引っ越し片付けなど、無理をしない程度にやっていたつもりでしたが、ある日突然たががはずれたように大量の出血が起きました。
私は半パニック状態で、まだ4歳になったばかりの娘を連れ、病院へと急ぎました。
大変混雑していて、診てもらえるまでに一時間半以上かかり、そうこうしているうちに生理痛のようなどんよりした痛みが、徐々に下腹部に広がっていくのが分かりました。
退屈して私の膝の上でゴロゴロしだした娘をぎゅっと抱きしめ、私はじわじわと襲ってくる不安と戦いました。
ここまで頑張って来たのに。
だいぶ苦労したのに。
やっと手に入れた双子なのに。
まさか2人とも行ってしまうのだろうか。
君たちの来るお家はこんなに愉快だよ。
楽しいことがいっぱいあるよ。
お空に戻る必要なんてないよ…。
最悪の事態を想像して目の前が真っ暗になりました。
診断の結果は、
「切迫流産」。
入院した方がよいと言われましたが、そうなると日中娘の世話をする人間がいなくなってしまいます。
両家の親は県外にいて頼れないし、夫も転勤したばかりで長期休暇を取るのは難しい状況でした。
私は薬を飲んで自宅で安静にしていることを選びました。
軽はずみに発した言葉によって取り返しのつかない傷を負わせてしまうこともある
帰りの駐車場で、私はさりげなく娘に伝えました。
「赤ちゃん、もしかしたらお空に帰っちゃうかもしれない」
いつもなら思ったことをすぐ言葉にするはずの娘が、うつむいたまま何も言いませんでした。
私の言っている意味が分からないのかなと思い、もう一度繰り返しました。
するとだいぶ経ってから、
「○○(娘の名前)ちゃん、何でだか知ってるよ」
と、何かをグッと我慢しているような声で言ったのです。
「え、何?」
と私は娘の顔を覗き見ました。
「○○ちゃん、何で赤ちゃんいなくなろうとしているのか、知ってる…」
「何で?」
娘の深刻な様子に、そう尋ねる私の声はやけに弱々しく響きました。
「○○ちゃんが、ママのお腹叩いたりしたから…」
私はハッとしました。
引っ越してきたばかりでまだ環境に馴染めず、娘はことあるごとに、
「抱っこして!」
と私に飛び付いてきたり、わがままを言って叩いてきたりしていました。
そのたびに私はこう言っていたのです。
「ほら、そんなに強く抱き付いたりしたら赤ちゃん、痛いって言うよ。苦しんでいたら可哀想だよ」
「叩くのは駄目。赤ちゃんがこんなところ嫌だ❗ってなったらどうするの?」
なんて浅はかだったのだろうと思います。
双子を受胎した以上、単胎よりもリスクがあるということは十分承知していたつもりでした。
それでも、自分は大丈夫だという何の根拠もない自信を持っていました。
実際「切迫流産」という現実を突きつけられて、私の何気ない言葉で娘が深い傷を負ってしまったことを思うと、娘に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
私はとても慎重に娘の誤解を解いていきました。
「赤ちゃんの入っている卵がね、1つだけ最初からとても小さいんだって。すごくすごく小さいから、力も少ないの。だけど一生懸命ママのお腹にくっついて頑張っているんだよ。もしいなくなっちゃったとしても、それは○○のせいじゃないよ。○○がちょっと叩いたくらいで赤ちゃんいなくなるわけないじゃん」
娘はうつむいたまま、
「うん…」
と小さく返事をしました。
小さな身体で一生懸命頑張ってくれた娘
その後しばらくして2度目の大量出血が起き、小さかった方の卵胞は願いも虚しく流れてしまいました。
私は残ったもう1つの命を守るために、入院して治療する道を選びます。
娘を見てもらうため、無理を言って実家の母に来てもらいました。
娘は私のいない生活に耐えかね、毎日泣いていたようです。
4歳になってまだ間もないのに、慣れない引っ越しや母親と離れ離れの生活、さらには保育園の一時預かりなど、急激に色々な変化に襲われ、娘にも大きなストレスがかかっていたのでしょう。
私が退院してしばらくしてから、チック症状が現れるようになりました。
見ていて可哀想で仕方がありませんでしたが、私も私で切迫流産の危機を抱えており、いっぱいいっぱいの状況でした。
今振り返ってみても、あの年は大変なこと尽くしだったと思います。
しかし、2人目の子供はなんとか私の中で踏ん張ってくれて、8ヶ月後に帝王切開にて無事生まれてきてくれました。
お姉さんになった娘が喜んでくれているのを見た瞬間、私の中にもようやく安らぎが訪れたのでした。




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